この前、こんなツイートを見つけました↓
今年のセンター世界史で満点を取った生徒の「東進一問一答」。もはや原形をとどめず、凄まじいオーラを放っている。 pic.twitter.com/a3S5ZWqXx8
— 鈴木悠介[世界史講師] (@yuusuke_suzuki) January 16, 2018
これ、ホントすごいですよね…。
こんなにボロボロになったり付箋を貼ったりしてるということは、この一冊を徹底的に使い込んだと思います。
ちなみに余談ですが、参考書はちょっと傷んでる方が使いやすいですよね。
心理的な抵抗が減るような感じがしますし、その方が勉強しやすいです。
その性質を利用するために、難しい本を読むときは、あえて本棚じゃなくてテーブルの上に放置してぞんざいに扱う、、、みたいなことをどこかの哲学者の人が言ってた気がします。
一冊を徹底的にやり込めば満点が取れる
で、話を戻すと、やっぱり一冊を徹底的にやり込めば満点が取れるんですよね。
よく「この参考書じゃなきゃダメなんじゃ…」と不安に思う人もいます。
でも、誤解を恐れずに言うと、参考書って結局どれも一緒です^^;
科目の本質が理解できるようになると、どれも同じにしか見えなくなってきます。
だから、レベルとか量だけ注意していれば、あとはその参考書からどれだけの知識を引き出すかの問題なんですよね。
(まあ、レベル・量の時点でつまづく人も多いですが…)
参考書・講義は手段であって、目的ではない
これは、学校や予備校の講義でも当てはまります。
というのも、
「英語は、○○の□□先生じゃないと合格できない」
「数学は、☓☓の△△先生じゃなきゃライバルと差がつく」
…みたいなことを言う人はよくいますよね。
でも、そういう人ほど「肝心の問題はどれだけ解けるようになったんですか?」と聞くと、何も答えられなかったりします^^;
もちろん、先生のおかげでその科目が好きになることはあるだろうし、学ぶきっかけを与えてくれる人は大切です。
でも、なんだかんだ言って、知識を定着させて使いこなすのは自分自身だよ、と僕は言いたいんですよね。
授業は手段の一つなのに、それ自体が目的になっている人が多すぎます。
そういえば、最近読んでるものに、これに近いことを書いてる本がありました↓
ソクラテスは、 教えることのできるのは学ぶことについてであり、何かを学ぶのは生徒であるとした。
大事なことは学ぶことであり、教えることであるとすることは思い上がりであるとした。
デルファイの神託が、彼をギリシャ一の賢人としたのはそのためだった。
(P F ドラッカー. ドラッカー名著集12 傍観者の時代)
どんな教材を使っても学べることは同じ
繰り返しますが、参考書や授業は一つの手段にすぎませんし、
特定の教材を使わないと学べないことなんて存在しません。
登山と同じことで、どんな教材から入ってもたどり着くゴールは同じです。
なので、迷わず今の一冊を徹底的にやり抜いていきましょう。
それと、高1・高2の人は、今からなるべく読書してほしいなと思います。
もちろん、読書が嫌いでも合格することはできるでしょうが…。
でも、そうでなければ、いろんな物事を知ってる方が近道だと感じますね。
好きなジャンルで平易なものから読むだけでいいので、
ちょっとでも読書の習慣があるとすごく有利になるのにな…とよく思います。