世の中には2種類の努力がある

この時期だからでしょうか、最近、僕がやっているLINE@アカウントに高2生の登録者が増えてきたように思います。

ということで、今回は、これから受験勉強を始めようと思っている人に向けて、なにか書いてみようと思います。

これから受験生になる人に必ず知っておいてほしいこと…。

なにか一つ挙げるとするなら、それは、世の中には「短距離走的な努力」と「長距離走的な努力」という2種類の方法があることですね。

そして、それらの区別を受けた上で、短距離走ではなく長距離走的な努力の仕方を、いまのうちから身につけてほしいなと思います。

まあ、これは平たく言えば「勉強習慣を身につけること」になるのですが、こう書くと当たり前の話だと勘違いする人が多い気がして、少し表現を変えてみました。

例えば、小説家の村上春樹さんは「職業としての小説家」という本の中で、こんなことを言っています。

小説をひとつふたつ書くのは、それほどむずかしくはない。しかし小説を長く書き続けること、小説を書いて生活していくこと、小説家として生き残っていくこと、これは至難の業です。普通の人間にはまずできないことだ、と言ってしまっていいかもしれません。そこには、なんと言えばいいのだろう、「何か特別なもの」が必要になってくるからです。

意外な感じがしますが、彼によると「小説なんて書こうと思えば誰にだって書けるもの」であり、「文章が書けて、それなりの作話能力があれば、専門的な訓練なんて受けなくてもとりあえずは書けてしまう」のだそうです。

ただ、そうかといって「じゃあ誰でも小説家になれるか?」というと、そんなことはないわけですね。

小説をひとつふたつ書くことは簡単でも、小説家として長く書き続けようと思ったら、そこには特別な才能が必要になるのです。

僕は、小説のことはよくわかりませんが、それでも彼の言いたいことはなんとなく分かる気がします。

というのも、「成果を出すこと」と、「成果を出し続けること」は全くもって違うことだからです。

「勝つことは簡単だけど、勝ち続けることは本当に難しい」とも言えるでしょうか。

あるいは、「一発屋として終わるのと、長くヒットし続けるのは違う」と言い換えれば、いくらか分かりやすくなるかもしれません。

短距離走と長距離走が違う種目であるように、成果を出し続けようと思ったら、最初から「成果を出し続けること」に向けた努力を積み重ねる必要があるのです。

短距離走的に成果を出す努力を積み重ねても、「成果を出し続けること」はできないんですね。

勉強について言えば、例えば、もし本人がその気になれば、どんなに優秀な学生をも上回るペースで勉強していくことは可能でしょうし、その結果、定期テストでかなり良い点を取ることだってできるでしょう。

しかし、そういう短距離走的な努力が長く続くことはありません。

なぜなら、情熱とは必ず燃え尽きてしまうものだからです。

「合格するとこんな良いことがある」とか「落ちたらこんな最悪なことが起きるよ」みたいに、どれだけアメとムチで動機づけしたところで、その気持ちは時間とともに薄れていきます。

それに、もし仮にその方法が上手くいったとしても、ちょっと良い点が取れたら、それはそれで満足してしまって、次の目標へ向かって努力することをやめてしまうでしょう。

これは人間である以上、避けられないことです。

だから、短距離を走るようにドカッと一気にやっても、正直あまり意味はありません。

形の上では、参考書のページが進んだり、定期テストで良い点が取れるかもしれませんが、ちょっと時間が経てば、以前の自分へと元に戻っていくだけです。

というのも、短期間で身につけようとしたものは、短期間で消えてしまうからです。

なので、短距離走的な努力は、それはそれで認められて然るべきでしょうが、その人の能力であったり人生を本質的に変化させることはありません。

本当に自分を変えようと思ったら、やはり短距離走ではなく、長距離走的な努力が求められます。

「テストがあるから…」というふうに、イベントやキャンペーンとして頑張るのではなくて、その努力を生涯続けるつもりで、それを生活の一部として自分の中に溶け込ませなくてはいけません。

そのためには、毎日少しでもいいから規則性をもたせて、自分の決めたことをコツコツ継続していくことです。

外から押し付けられるのではなく、自分でルールを決めて継続していった結果、行動することに少しずつ慣れていき、そのうちそれが楽しいと感じられて、ついにはそれをやめると物足りなく感じるようになる…。

そんなふうに長いスパンで努力を積み重ねていくことで、あるとき僕らの中で、突然なにかが起きるのです。

それは例えば、以前学んでわかったつもりになっていたことが、「ああ、あれって、そういうことだったのか」と、実感を伴った理解へと変化するようなことです。

そして、そういう実感こそが、どんな問題にも対応できる本物の学力になるんですよね。

だから、繰り返すようですが、そういった実感を手に入れようと思ったら、短距離走ではなく長距離走の努力をするしかありません。

短期間で一気にドカッと勉強を進めてもダメなのです。

なぜなら、自分を変えるということは、表面的な意識の範囲で物事を片付けるのではなく、無意識の深いところへ繰り返し行動を刷り込んでいく作業だからです。

参考書のページ数や問題番号なら、一日でまとめて2,3日分進められるかもしれませんが、自分を変えることについては、そうはいきません。

一日はあくまで一日です。

だから、これから受験勉強を始める人は、辛抱強く継続していく長距離の走り方を身につけて、いまのうちに成績を伸ばすための土壌を作っておいてほしいなと思います。

試験本番が近づくほど、こういう長距離の走り方を身につける暇がなくなってしまいますからね。

最初は10分でも20分でもいいので、自分でルールを決めて、毎日必ず勉強するようにしてください。

さて、最後にですが、僕は「短距離走的な努力」を頭ごなしに否定するつもりはありません。

長期ではなく短期的な努力が必要な場面もたくさんあります。

だから、使い分けが大事なんですね。

ただ、あまりにも長距離の走り方を知らない人が多すぎる気がしたので、今回の話をしてみました。

どれだけハードに物事をこなしたところで、1週間とか1ヶ月続けたくらいでは、自分を変えることは難しいんじゃないかなと思います。